“好き” を仕事に──「遊雪農商」の循環を作りたい|塚田卓弥さん|上越市中郷区
セキララU&I|No.19|2017/12/15 公開
こちらは旧サイト「あどば電子版」(2023年3月閉鎖)で掲載していた過去記事のアーカイブです。
「田舎には仕事が無いんじゃ…?」「上越って、どんな魅力があるんだろう」——Uターン・Iターン、はたまたJターンを考えるときに、必ず浮かぶ疑問のいろいろ。そこで、上越エリア在住の「移住の先輩」に移住の際の苦労や喜び、これまでのエピソード、メリット・デメリットも含め、ここで暮らそうと決意した “上越の魅力” って何?etc.……セキララに語っていただきます。(な)
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Profile name: address: occupation: birthplace: explace: family: | Way of J-turn 1987年 SAJ公認スキーバッジテストで最高位取得 1989年 アメリカ・コロラド州へ移住 1991年 帰国し新井市(現 妙高市)の新井リゾート株式会社に入社。国を跨ぎ、上越へ1回目のJターン 1996年 東京にてスタジオジャパホを起業 2004年 結婚 2006年 国内初のヘリ&CATツアー商品化 2011年 東日本大震災を機に自身の働き方・生き方について考え始め、事業縮小へ 2013年 春 東京との二拠点居住を開始 2014-15年 クラブフィールド妙高を立ち上げ「大毛無山の魅力再発見ツアー」を開催 2016年 11月、上越市中郷区に自宅を購入 2017年 4月、妻と娘を中郷に迎え、一家で定住開始 | ||||
Way of J-turn 1987年 SAJ公認スキーバッジテストで最高位取得 1989年 アメリカ・コロラド州へ移住 1991年 帰国し新井市(現 妙高市)の新井リゾート株式会社に入社。国を跨ぎ、上越へ1回目のJターン 1996年 東京にてスタジオジャパホを起業 2004年 結婚 2006年 国内初のヘリ&CATツアー商品化 2011年 東日本大震災を機に自身の働き方・生き方について考え始め、事業縮小へ 2013年 春 東京との二拠点居住を開始 2014-15年 クラブフィールド妙高を立ち上げ「大毛無山の魅力再発見ツアー」を開催 2016年 11月、上越市中郷区に自宅を購入 2017年 4月、妻と娘を中郷に迎え、一家で定住開始 | ||
海外もたくさん行ってるけど
どこと比べても遜色無い
──まずは、移住のきっかけを教えていただけますか。
僕の場合は、ぐるっと廻って戻ってきた感じ。もう25年以上前になりますけど、新井リゾート株式会社の社員として旧 ARAI リゾート(以下:ARAI)の開発に関わってたんです。 ARAI の開業が1993年で、僕は1991年から5年間働いていました。
住んでいたのは高田(上越市)で、夜はしょっちゅう仲町に飲みに行ったり、夏は地元組の先輩たちに連れられて郷津の海でジェットボートをしまくったり(笑)、すごく楽しかったですよ。
──塚田さんが22〜23歳の頃ですね。もしかすると、その頃に刻まれた上越妙高の記憶が塚田さんにとってひとつの原風景のようなものなんでしょうか。
ああ、“原風景”、良いですね。そうかもしれない。実際の風景も、こんな素晴らしい土地はなかなか無いんですよ。ここを拠点に選んだのは眺望の素晴らしさが大きな理由のひとつです。この近くの「しなの渡し」からは妙高山・火打・容雅山、大毛無山から南葉山まで見渡せるんです。東を見れば桶海・光ヶ原高原、その左手は海まで視界が開けている。そんな景色のすぐ側に生活圏があって、豊かな雪があって。
──ご出身の軽井沢も美しいリゾート地として古くから有名ですし、正味の話、スキーもできますよね?
もちろん軽井沢は素晴らしい土地です。でも、ここには軽井沢には無いものがある。この辺りの景色は ARAI にいた頃から大好きだったんだけど、その後これまでに、俺ね、けっこう色んな土地を見て来ましたよ。でも海もあって山もあって、360度、こんな風光明媚な場所は他に無いなと、改めてそのスペックの高さに痺れちゃったんです。
海外もたくさん行ってますけど、本当にどこと比べても遜色無い。でも、やりたいことをやるために新井リゾートを辞めて東京で事業を起こしたんですけど……本当にやりたかったことを形にするのに、ここに来るまでに20年も掛かっちゃった。ちょっと掛かりすぎですね(笑)。
──この冬開業するロッテARAIリゾートとは関係されてるんですか?
僕の会社でプローモーション動画の制作はしてますが、直接は関係してません。でも思い入れのある場所だったから、あそこが再開されるのは嬉しいですね。
実は僕、買い手がつく直前の2014年に「クラブフィールド妙高」というプロジェクトを立ち上げて、あの一帯をフィールドに「大毛無山の魅力再発見ツアー」を開催したんです。その反響が予想以上に良くて、この妙高エリアの未来に期待を強く感じました。
僕が打ち出したのは「大資本に頼らず工夫して、雪国の魅力を再発見・再活用しよう」というコンセプトだったんですけど、資本力のあるグローバル企業が入ってくるのは、それはそれで素晴らしいことなんです。世界中に顧客を持っている企業が、彼らに向けてこの妙高エリアを紹介してくれるんですから。雇用も生まれるし、地方にいながらにしてグローバル企業で働くことができるのは、若い人にとっても非常に大きなチャンスだと思いますね。
震災後「働き方を変えたい」と思った
──塚田さんの「本当にやりたかったこと」とは、どんなことですか?
まず、ARAI リゾートで働く前は僕はアメリカに2年住んでいたんです。元々はスキーをしてたんですけど、アメリカでスノーボードに出会って、ARAIでスノーボードするのが僕の夢となった。
結果スノーボードカルチャーを持ち込んだっていう言い方をしても良いと思うけど、実際ハーフパイプ(スノーボード用コース)の製造機を日本で初めて輸入したりして、全国から視察が来た。だからその頃、 ARAI は関温泉スキー場と並んで「スノーボードの聖地」と呼ばれたりもしてました。
でも経営が変わり、突然スノーボードが禁止になる話が耳に入ってきて……
──ああ、スノーボーダーのゲレンデ事故だとかで問題化していた時期がありましたね。
それで奮起して、「スノーボーダーの市民権を得るには」と考えたんです。当時インターネットは “まだまだこれから” の時期でしたけど「そうだ、インターネットを使ってスノーボーダーのコミュニティを作っちゃえば良いんだ」って、新井リゾートを辞めて東京に行き、スタジオジャパホを立ち上げました。
スキー場・キャンプ場の情報を発信するWEBメディアを主な事業のひとつにしている会社です。
──その起業が、1996年。まだ、インターネットではなく “パソコン通信” と呼ばれていたような時代ですよね。
そうそう。2000年頃には千葉の大規模屋内ゲレンデからプロスノーボーダーの滑りを世界に向けてライブ配信したりとか、キャンプ場の情報や山の保全活動といった夏場の事業もありつつ、基本的にはずっと雪の上でやってきたんです。
Webコミュニティ作りから始まって、2006年にはヘリツアー・CAT(雪上車)ツアーの事業化、2010年には外国企業と事業提携、他にもいろいろ。どんどん活動の幅も会社も大きくなっていって、良い感じではあったんだけど……
東日本大震災があって、「働き方を変えたい」と思うようになったんですよね。
震災以降、物資や資金を寄付をしたり、現地にボランティアに行ったり、国内外をまたぐチャリティオークションを開催したり、色々と取り組んだ後に、ふと「自分は本当は何をしたくて会社をやってたのかな」と思っちゃった。
──おそらく誰もが、己の生き方を問い直した時期ですね。
やっぱり自分自身も雪山に近い所で暮らしたいし「そういう環境を作れるんだよ」っていうことをやりかったんじゃないのかと再認識して、それから5年掛けて、会社の規模を小さくしたんです。
少しずつ事業を切り分けながら信頼できる仲間に託して、その過程のなかで僕、クラインガルテン妙高に区画を借りたんですね。
クラインガルテンで農作業なんかをしながら、東京と往復する二拠点生活。家族は東京にいて、2013年から去年の秋まで、クラインガルテンがこっちでの僕の住まいでした。
そんなこんなしていたさなか、2015年春に北陸新幹線開業がありましたよね。そのタイミングで「大毛無山の魅力再発見ツアー」をやったんです。そうしたら想像以上に評判になり、巡り巡って、妙高市から「妙高観光推進協議会の組織づくりをして欲しい」という依頼が来た。
──昨年春に発足した、妙高版のDMOですね。
そうです。大毛無山の矢代地域の皆さんを取りまとめた点だとか、僕が今までやってきたマーケティングやコンサルティングの経験値だとかを評価してもらっての打診だったのでありがたくお受けして、去年の春から1年間、戦略コーディネーターとしてあらゆることに取り組みました。
この地域の深いところまで関わせてもらえて、得るものは大きかったんですけど……あまりにも忙しくて、全く東京の自宅に帰れなくなっちゃったんですよ(苦笑)。個人的に、正直、そこはかなり参りました。
半年くらいで気が滅入ってきちゃって、それで去年、娘の小学校卒業を前に「3人一緒に新潟で暮らしたい」と切り出したんです。去年の11月に自宅を購入して、今年の春から家族で暮らし始めました。
子供の世界が狭まるんじゃないか
という懸念はある
──実は今までこの「セキララU&I」に登場していただいた方は、お子さんがかなり小さいうちに移住された方や、移住時点ではお子さんを持たれていなかった方ばかりなんです。移住に対して、奥様や娘さんはどんなご意見でしたか?
実は妻は ARAI で働いていた頃にこっちで出会って結婚した人なので、彼女はこの辺りのことはよく知ってるんです。でも娘は、引っ越し当日まで大泣きしてましたね……娘からしたら生まれ育った場所や友達から離れるわけだから、「俺が泣かせてるんだな」って、そればかりは辛かった。
でもありがたいことに、今はすっかりこっちの暮らしに馴染んでくれてますね。今、僕が家にいる日は毎日、学校まで送り迎えしてるんです。車の中で娘の話を聞いて、校舎に入っていくところまで後ろ姿を見送って。振り返ってみれば、小学校のときは全くそんなことできていなかったんですよ。
でも今こうして娘の成長を見守れる生活が本当にありがたく、幸せな気持ちになりますね。
──大都市と田舎の教育環境の違いは、何かお感じになりますか。
そうですね。地域の子供の数が少ないこと、それによって子供たちの世界が狭まるんじゃないかという点には懸念があります。でもそれに対しては、この YUKISATO Lab でいろんな学びの場、体験の場を作って拡げていってやりたいと思ってます。今年6月にオープンしてすぐ子供向けの英会話教室を始めて、娘も一緒に参加して楽しんでますよ。
英会話は近々、大人向けも始めようと思ってますけど、すでにやっているのはこの岡沢集落の木材を使ったスマホ用のウッドスピーカー作りのワークショップだとか、この近くの景色の良い場所で6回シリーズのヨガレッスンとか。子供だけじゃなく大人も、僕自身も、常に “学び” と共にありたいと思ってるんです。
“好き” を仕事に——
「遊雪農商」の循環を創りたい
──塚田さんの「やりたいこと」は “雪山” と “学び” に集約されるんでしょうか。
僕はとにかく「好きを仕事に」がポリシーで、雪山が好き。今もバリバリにスノーボードもスキーもしますからね。ジャパホの経営理念は「日本の天然資源である雪という恵みを活用し、雪山で遊ぶ事が好きな人たちが、雪国で定住できる地域経済圏をつくる」なんです。そのために重要なキーワードが、クラブフィールド妙高の時から掲げている「遊雪農商」。
地域おこしだ、地方創生だという話になると、誰もがまずやろうとするのは農業の立て直しなんですけど、農業だけなら東京からここに来るまでに通過する埼玉・群馬・長野、その3県のどこででもできるんですよ。埼玉あたりなら、畑を耕して一杯飲んで日帰りができちゃいますよね。
──確かに。
農業の立て直しが必要なのはその通りなんだけど、いきなりそこから変えるのは難しい。まず、人が、この上越妙高エリアにまでやって来る動機が必要なんです。僕も、ゆくゆくはこの上越妙高エリアの人口を増やしたいと思ってる。そのためにはまず交流人口・関係人口の増加が必須だけど、農業はその取っ掛かりにならない。
でもこの上越妙高には海・山・郷が揃っていて大量の雪も降る、リゾート地として最高の自然環境が揃ってるんですよ。
国内外からリゾートに訪れる人が増えれば受け入れる側の人間も必要になり、雪山で暮らしたい人の仕事が生まれる。そして雪の無い季節には農業に取り組み、育てた作物を商う、この循環を創りたいんですね。
会員向けの販売なんですけど、今年から「雪番長米」というブランドネームで妙高産コシヒカリの販売を始めました。雪国で生活し活躍する人々を「雪番長」と定義して、その雪番長が育てた米です。
──良いですね。でも上越市だけでも東京23区に匹敵する広さで、妙高市と合わせれば更に広大なエリアになります。そのなかで、この中郷区岡沢を拠点に選ばれたのには何か理由があったんですか?
ええ、さっきも言った眺望の素晴らしさがまずひとつ。でもその前に、ある時、この岡沢地区の区長さんとご挨拶する機会をいただけたんです。僕がこの上越妙高エリアでやっていきたいと思っていることをお話ししたら「おもしろい。ぜひやってくれ、協力するよ」と言ってくださったんですよ。
所詮僕は “外様” ですし、たぶん、元々の土地の人たちにとっては僕が外様であることは一生変わらないと思ってるんですね。だから、初対面の外様のそんな話に「協力する」と断言してくれる人が1人でもいたということにすごく驚いて、勇気をもらったんです。
それと、中郷はエリア的にはすっぽり妙高エリアの中なんだけど上越市で、妙高戸隠連山国立公園には入っていないんですよ。つまり地域の皆さんの協力と上越市の必要な認可さえあれば、山野を自由に使えるんです。
job ではなく work
“学び”と共にありたい
──なるほど。心動かされる出会いと、様々な条件が揃っていたんですね。でも実際に「地域の皆さん」の協力を得るのは、そう簡単な話ではないのでは?
そこなんですよ。都会と田舎の往復生活をするなかで解ったのが、コミュニケーションの順序が違うということです。都会型は「共有 → 共働 → 共感」。まず売上目標なりプロジェクトゴールなり、都会型は “情報” の共有から物事が動く。
対して、田舎は「共働 → 共感 → 共有」。つべこべ言わずに、まず共働。地域の一員として、地域の仕事に参加することですね。地域社会の維持のために日々やらなきゃいけない仕事がある人たちに、外から来た人間がいきなり「遊雪農商です!」って言ったって、耳を傾けてもらえるわけがない。
たとえば小学校の草刈りとか、地域の文化祭とか、住人としてやるべき仕事にきちんと協力して働いて初めて、リアルなコミュニケーションが生まれるんです。
──共に汗を流して働いて初めて「おまん、どこから来たの? 何してる人?」と話を聞いてもらえる、と。
そういうことです! DMOの仕事に区切りがついたこの春以降は地域の仕事は片っ端から出て、おかげで以前より忙しいくらい(笑)。でも、すごく充実していて、そこからどんどんつながりが生まれ、つながった人たちからいろんなことを教えてもらってるんですよ。
【下】同11月、同じく岡沢の若手(20〜40代)に集まってもらい、お酒を飲みながらの意見交換会。塚田さんは地域の皆さんの声に耳を傾けることを徹底している
(写真:塚田さん提供)
雪番長米を育ててくれている尾崎さんという方いるんですけど、尾崎さんは山の先生。スノーモービールの乗り方から鹿や猪の解体の仕方まで、すごい知識や技術を教えてくれる。そういう強力な人たちとどんどんつながって、加速度的に僕のやりたいことが形になってきてます。
さっきの “学び” の話ともつながるんですけど、僕の好きな言葉は job ではなく work なんですよ。この違い、分かります?
──違い? 何でしょう。job は職業、workは……
そう、job は職業。技能やサービスを売って対価を得る仕事です。でも work は、ホームワークとかライフワークみたいに、常に “学び” のある仕事に対して使う言葉なんですよ。学びには未来がある。
「雪郷」のサトの字は中郷区の郷の字でもありますけど、この字の成り立ちを調べたら、人と人が卓を挟んで向かい合う姿を元にした字なんですって。それを知って、「雪景色を窓の外に見ながら卓の周りに人が集って、語らい、学び合う場所にしたい」という想いを込めて「雪郷」というプロジェクトネームを付けました。
──このテーブルが正に。
このテーブルもね、岡沢で林業をされている方から譲ってもらった木材で手作りしたんです。僕にはものづくりの技術・知識は無いけど、こっちで知り合った丸山達也というものづくりの達人が僕の雪郷プロジェクトの相棒になってくれていて、このラボのリフォームもテーブルも、達ちゃん主導で教わりながら一緒に作りました。
スピーカー作りの講師も彼。それと、このすぐ近くに YUKISATO baseというもうひとつの拠点を設けてあって、スノーモービルに乗って岡沢の山野で遊ぶツアーの準備が今まさに進行中です。資金調達はもちろん考えてはいるけど、基本的には自前だからけっこう大変なんですよ。でもこの木材も、base の建物もスノーモービルも、みんなお金じゃなく「価値」の交換で地域の皆さんから提供してもらうことができて、準備が進んでるんです。1年後には形になってますよ。見ていてください。
──楽しみにしています。今日はありがとうございました。
ありがとうございました。よろしくお願いします!
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